「裏切られた」 という言葉


先日ある友人から 「仲間と思っていた人に裏切られた」という言葉を聞いた。
すごく深刻な言い方である。
自分がこうしてくれると信じていたのに違った、心変わりをして自分よりほかの人の仲間に入ったとか・…らしい。

「裏切るということは味方を捨てて敵方についたり、約束・信義・期待に背いたりすること」とあるが、では 裏切られたということは反対に見方に捨てられたり、約束を破られたり、期待に背かれたりするということであろう。

そんな言葉を聴きながら私はとっさに直感したのだった。
彼女の日頃の言動から察して それは彼女が相手に勝手に期待してるからそういう言葉が出るんじゃないのではないかと。

彼女は私に聞いた。 「裏切られたことない?」と・・・・・・・。
私は暫く考えた。 というのもすぐには 「あったよ」 と答えられなかったのである。
私は友人に恵まれているためか、自分があまりにも 単純で 鈍感で よほどのことがない限り自分以外のことをあまり問題視する性質(たち)ではないのか、その「裏切られた」という感覚が良く理解できない。

唯 思うに、他人への期待が有ったのに期待していたほどでもなかったと思うことはたびたびであったのは事実である。 でもこれが裏切りであるのかと考えれば必ずしもそうではない。 
「期待に応えられない」ことについては、たとえその前提として信頼関係があったとしても、非常に希薄なものであり、信じていたとか期待していたとかということは自分サイドのことであり、相手はそもそもそのようには考えていなかったのかもしれないということもある。

された側が仕方ないなあと思えば裏切られたという表現はできないはずなのではないだろうか。
裏切り者だと彼女がおもっている相手の人も多分お互いに期待通りにならないことを不満に思いぶつぶつ言っているのかもしれないし、反対に何とも感じていないのかもしれない。

「裏切られた」と、思う心の大前提には、「信頼」が有る。
勝手に信頼していたから、「裏切られた」と、勝手に思ってしまう、と考えられないか。
勝手に自分が信頼して、勝手に裏切られてるのではないだろうか。
ゆえにこの問題の処理の仕方は「自分が勝手に期待しすぎたからだ」と思うこと。相手は「裏切った」と思っていないかもしれないと思うこと。
そして何度も人から裏切られると思った時は自分自身が原因かも?と見てみる視点を持つことも大切であると感じられる。

幾度となく「裏切られた」という感情を受けることを繰り返されれば まずは慣れてくる。
しかし、人間には感情というものがあるら、慣れるとはいっても、その都度くやしさや、悲しさ、さびしさなどの感情は自然に生じるであろう。

でもその経験が多ければ多いほど逆に、自分にとって、相手にとっても本当にお互いを必要としあえる友人を見つけることが出来るようになるのではなかろうか。
先ずは免疫をつくるべきことも必要で 一つのことに執着していては先に進めない。

尚、彼女は良く「我慢をする」という言葉を使うが そのたびに良くウジウジ愚痴を言う。
私から言わせればそれは本当の我慢ではない、本当に我慢をするというならばそれに対しての不平不満は一切言わない。そこまでしなければ本当に我慢するとは言えない。
私だったら絶対といってよいほど愚痴がついてでるような事柄に対しての我慢はしない。
愚痴を言うくらいならその時点で自分の言いたいことをしかっり発言してゆけばよい。それを相手が受け入れるか否かは実行前には分からないが言いたいことも発言せずストレスだけをためるというのは余りにも時代錯誤でもあり己を卑下し過ぎてはいまいか。 後悔するような我慢はしない方が良い。 

自分の幸せ感は他人にとっても幸せ感につながってゆくものである。
自分の不幸を人のせいにせず正しい方向に自分を導いていってほしい。


彼女には伝わったかどうかは分からないがこのときはそう伝えたつもり・・・・・・・。
[PR]
by aakinishi | 2012-08-24 15:20
<< 復古 未熟者 >>