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東欧(ブルガリア、ルーマニア)旅の思い出 その4

 ルーマニアへ
ブルガリアのガイドMR.ヤボーさん(これが全く好青年だった!)とドライバーのMr.シメオンさんからルーマニアのガイドMs.ミハラさん、ドライバーのMr,ニコルさんにバトンタッチ。いよいルーマニアへ入国。

ブーナ ジア(今日はという挨拶)

東欧(ブルガリア、ルーマニア)旅の思い出 その4_d0053828_1728749.jpg先ず、ドイツ系住民の職人や商人がこの町を発展させたというシギショアラを散策。町のシンボルは60メートルあるという時計塔。広場にあるドラキュラのモデルとなったヴラド・ツエペッシュの生家“Casade Vlad Drcul”というレストランで昼食。いざ昼食という時、奇しくも停電騒ぎとなり、これぞドラキュラのしわざ!!と騒然となる場面があった。

次に訪れたビエルダン。町のシンボルの要塞教会。16世紀前半に建てられたという教会で今は世界遺産に登録されている。特に印象深かったのは、聖具室のドアーで中央の鍵のハンドルを回すと15個あるというかんぬきが一斉に動く仕組みとなっているもので1900年のパリ博覧会に出品され金賞を受賞された由。
この日の夜は要塞跡の“CETATE”というレストランでクラシック音楽を楽しみながらの夕食だった。
此処で夫が肩越しから料理をかぶせられた事件有り。平謝りの女性オーナー。新しいワイシャツを弁償するからというのをお断りしたらホテルに着くや否や早速クリーニングの手配があった。夫は特別にこのレストランのシンボルである要塞を焼き付けたメダル(?)と一輪挿しの花瓶とオーナーの熱いキスを何度も受けた。
旅というものが楽しめるのは、スローライフを味わえたりこのような珍事があるからだろう!

ルーマニア第2の都市、プラショフ>は12世紀に町に移住してきたドイツ系商人によって基礎が築かれたというほどにドイツ風の家並みがそこかしこに点在していた。黒の教会と呼ばれる教会は14世紀に建立されカトリックからプロテスタントに改宗しドイツゴシック様式の建物で、火事で外壁が黒くこげた為、黒の教会と呼ばれるようになったそうだ。
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“ドラキュラの城”と呼ばれているブラン城。 此処は14世紀にトランシルバニアとワラキアの境界に税関として建てられたという。1920年当時の国王フェルディナンド一世の王妃マリアに贈られたサマーハウスで、内部には当時の調度品が残されて展示されていた。実を言うとほんの少し恐怖めいた体験を期待していたが話の中の”ドラキュラ“とは無縁のたたずまいであった。

ブカレスト入り。カルパチア山脈の南に開けた都市。かつては“バルカンのパリ”と呼ばれた美しい町だったとのこと。第2次大戦後に町並みはすっかり作り替えらて共産党時代の巨大な建物や薄汚れたアパートが立ち並んでいたのが歴史を物語っているかのようだった。
チャウシェスクによる独裁政治を象徴する巨大な宮殿・・・それが“国民の館”と呼ばれるもの。

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床面積は33万平方メートルでアメリカのペンタゴンに続く第2位という。部屋の数は3100以上もあるという。1989年チャウシェスクが処刑された時はほぼ完成間近だったと言う。
こんなに大きな建物を見たことのない私はその存在自体に本当に驚いた。チャウシェスク大統領は旧共産党本部の屋上からヘリコプターで逃亡を図ったが捕らえられて処刑されたという。自分だけの威信は長く続くものではない。今現在、この国民の館は政党の本部があり、様々の会議場として使われている。私たちが訪れた日も何か大きな会議があったようで1つの大会議場に各国の名前の書かれているスタンドがテーブルに立てられていた。Japanを探したがすぐには見当たらず、そこに居合わせた職員に日本はあるのかと尋ねたら、この日は日本は参加国ではないという返事が返って来た。
町中、警察の先導車が大きな音を出しながら矢次早に走っていた。
建物内部も全て大理石、豪華なシャンデリア、絨毯が施され、見るものすべてに圧倒されたというのが本音でもある。こんな贅沢もあれば貧困もあるのに・・・と何か複雑な思いで此処を後にした。
by aakinishi | 2007-09-30 17:36
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